2002年4月18日-20日        ◆六本木旅行記


     <六本木旅行記>   

昨年末、私の甥が、六本木でイタリヤ料理店を開店しました。私の友人達が、「すごい。そこへ、皆でツアーを組んで行きましょうよ」と言ってくれました。丁度そこへ、東京のミュージシャンの私の友人から、「ライブを開催する」とメールが入ったので、それではと、同行5名のツアーで東京へ行くことになりました。この旅行の楽しかったこと。以下が、その旅行記です。



4月18日(木)<第1日目>   ◆イタリヤ料理店
    (上と同じ)     ?ミニライブ(鶴秀子さんと私との出会い)
4月19日(金)<第2日目>   ?ディズニー・シー
4月20日(土)<第3日目>   ?横浜へ




<私の甥が、イタリヤ料理店を開店>

私の甥は、28才です。何年もの間、青山の有名なイタリヤ料理店で修業をしておりましたが、この程、六本木にお店を開店しました。
もう一人の青年と共同経営です。その青年は、バーテンダー修業後、イタリヤ料理の修業に来た人で、二人は意気投合して、一緒にお店をすることになりました。
二人は、若くてお金が無いので、壁紙も自分達で張り替え、フローリングも自分達で貼りました。ワイン棚はもちろん、椅子も手作りし、店に付いていた冷蔵庫などの機材や備品が、汚れ放題だったのを、全部磨き上げてピカピカにし、なんとか、開店にこぎ着けました。

お店の名前は、「CINQUANTA e CINQUANTA」(チンクアンタ エ チンクアンタ)と言います。
「50対50」という意味らしいです。
名前の由来は、二人の共同経営であること、そして、お酒が飲めて、料理も食べることが出来る店を目指しているからだそうです。(但し、もう一人の男性は、現在、出稼ぎ中です。)

しかし、元、スナックだったその店は、調理場と言うものは無く、隅っこに小さなレンジのみ。びっくりする程、小さなお店でした。私の従兄弟たちや、その家族も来てくれたので、狭い店内は満員でした。
雑誌「HANAKO」で、イタリヤ料理店として紹介されたこともあり、いっぱしの料理店をイメージしていた私達は、わざわざお腹を空かせて行ったので、出てくる料理を待ち構えて、たちまち平らげてしまうので、その小さなレンジで、作り手は、大変だったと思います。しかし、そこで、20人前の料理を作り出すという、魔法の様なことを甥はやってくれました。さすが、私の甥っ子! いつか、本当のイタリヤ料理店を、開店するつもりだそうですが、きっと、良い店を作ってくれると思います。成長株として、期待しています。

ともあれ、とても、落ち着ける、良い店であることは保証致します。興味のある方は、1度行ってみて下さいね。
下に、場所を記しておきます。
   

お店の名前

CINQUANTA e CINQUANTA
(チンクアンタ エ チンクアンタ)

お店の場所

東京都港区六本木3-9-3
第2ビレッジビルディング3F
 TEL 03-3408-5054  
FAX 03-3408-5054
営団地下鉄 六本木駅から5-6分の所です。
4階建てのビルの3階です。






<店内での、ミニライブ>

左は、私の友人でミュージシャンの鶴秀子さんです。右は、その相棒の演奏家の越智泰彦さんです。本当は、3/10開催の彼女のライブに行くつもりでしたが、私の身内に不幸があり、旅行を1カ月ほど延期しました。
それで、折角のライブを聞けなかった私達の為に、今回彼女の方が、甥の店に来てくれて、ミニライブをしてくれました。感激でした。
(写真がうまく撮れていなくて、残念です。)

<鶴秀子さんと私の出会い>

1995.1.17の阪神大震災で、家が全壊した私は、大阪の寝屋川で1年半の避難生活をしました。その間、「神戸に無事に帰ることができたら、絶対にパソコンを買おう。それも、マッキントッシュだ。」と決めていました。
1996.5.4、神戸での感激の再出発をした私は、半年後あこがれのマッキントッシュを購入しました。1996.10.9のことです。これが、私とパソコン(アップル・パフォーマ)との最初の出会いでした。58才の時でした。

想像した通り、パソコンは素晴らしく、その途方もない能力に私は感動しました。私は、「この子が付いていて呉れるのなら、何でもありの世界だ、私さえ頑張れば、どんな夢でも見ることが出来る」と確信しました。しかし、「私さえ頑張れば」と言ったって、そんなに甘いものではありませんでした。その頃の、パソコンの状況と言えば、何冊にも及ぶ分厚い難解なマニュアルと、故障、不具合、接続不能、フリーズの連続に泣かされながらの格闘で、「これでもか?これでもダメ?」の挙げ句の果てに、「一体、どうしたら良いのよ」と叫んでいる毎日でした。今のパソコンしか知らない人には、想像も出来ない世界だと思います。しかし、それを言うと、それでさえ、「その前の状況を知らない人の言う事だ」と言われた事があります。(はい、すみません。)
特に、プリンターとの接続ができたら、もう上級者だと言われる程、当時は、印刷は難しいものでした。私は、初心者にも関わらず、生意気にも、パフォーマを2台繋げて(LANを組んで)いたので、ニッチもサッチも行かない状態が続きました。画面に表示される警告も、苦手な英文で、更に、それをシステム的に理解する知識がないので、何がどうなっているのか解読出来ず、困り果てていました。

私は、思いあまって、プリンター会社のサポーターに電話して、窮状を訴え、助けを求めました。
その女性担当者は、私が阪神大震災の被災者である事を知り、驚いてこう言ったのです。
「私は、あの朝、予知夢を見たのです。つまり、あの地震が起きる前に、同じ光景を夢に見ていたのです。後で、テレビの映像を見てびっくりしました。まさしく、私が夢に見た光景が、そこに写し出されていたのですから…。」と。
そして、「すぐ、神戸に駆けつけたいと思ったけれど、(仕事があり)行けなかったことを、自分で責め続けていたのです。私は、貴女のサポートをすることで、ようやくお役に立てます。嬉しい。私に任せて下さい。私を指名して、どんなことでも、聞いて下さい」と言ってくれました。その人が、鶴秀子さんだったのです。

その後、いつもパニックを起こしては、訳の分からないことを聞いて来る私に、「それは、シロちゃんの現象ですか?クロちゃんの現象ですか?」と、落ち着いて優しく聞いてくれる彼女でした。私が、白いパフォーマを「シロちゃん」、黒いパフォーマを「クロちゃん」と名付けていた事を、彼女はすぐに覚えてくれていたのです。彼女のお陰で、私は少しずつ、絶壁をよじ昇って行くことが出来ました。私は、59才で長年勤めていた銀行を辞めました。新しい世界を見付ける旅へ出発する為です。1997.12.15のことでした。定年の60才までのたった1年が、私には待てなかったのです。

何に出会うか、それは分からないけれど、その何かを見付けたいと、私は文字通り必死でした。やがて、自分でも信じられないことに、中学校以来絵とは無縁で、自分には絵は描けないものと思っていたこの私が、いつの間にか、イラストを描き始め、退職後1年半で、「みずえ工房」を設立しました。60才でした。パソコンを使いこなすだけでも、大変なのに、1年半で、いきなりプロになった私の辛苦を、ご想像下さい。友人達は、その頃の私を評して、「すさまじいの一言に尽きる」と表現しました。
そんな必死な私に、彼女は、惜しまず助力をくれ、励まし続けてくれました。
毎年震災記念日の1月17日に「震災復興地を歩く会」に出かけ、まだ復興できない被災地の生々しい姿を見て帰宅した私に、彼女の優しい励ましのメッセージが留守電に入っていたのでした。

そして、退職後4年目の昨年、私が始めての作品展を開催したとき、彼女は、埼玉から、神戸まで駆けつけてくれました。5年目にして、始めての対面でした。私の恩人は、思っていた通りの素敵な人でした。私達は、意気投合し、時間オーバーして、結局、彼女にもう1泊させてしまうはめになりました。彼女が、歌のプレゼントをするために来てくれたと聞き、エルビス・プレスリーの「好きにならずにはいられない」を、リクエストして、歌って貰いました。彼女の本当の姿は、ミュージシャンだったのです。

その彼女から、「コンピューター会社を辞めて、音楽1本に復帰すること。オフィスを設立したこと。そして、3月に東京でライブをする。」との、メールを貰ったので、是非聞きに行きたいと、新幹線の切符まで買っていましたが、急に私の身内に不幸があり、旅行を延期して、この日程になりました。
彼女のライブを聞けなかった私達の為に、彼女が六本木の甥の店まで来て、ミニライブをしてくれました。もちろん、今度も、プレスリーの「好きにならずにはいられない」を、私はリクエストしました。彼女の相棒の越智泰彦さんは、素晴らしい技量を持った演奏家で、レコーディングの合間を縫って来てくれました。私達、同行5名にとって、本当に夢の様に楽しいひとときでした。

こんな出会いもあることを、友人達にも知って貰いたく、私は、ミニライブの前に、このことを皆に話し、彼女を紹介しました。それを、ここへ記した次第です。
震災は、本当に苦しかったけれど、それを乗り越えた時、素晴らしい友人達と、生き甲斐ある仕事を得ることが出来ました。
私は、新しい人生を始めました。鶴秀子さんに、そして、多くの支援者の方々に、心からの感謝を捧げます。




2002.4.19(金)

<ディズニー・シーへ行く> <携帯電話の有り難さ>

5人で、「ディズニー・シー」へ行きました。人魚のファンタジックな劇が、最高でした。おばさん達は、何度もはぐれそうになりながら、何とか、はぐれずに、1日中楽しく遊びました。
その秘密は携帯電話です。最初、5人の内2人は携帯を持っていなかったのですが、その人達も旅行前に購入し、全員携帯電話を所持しました。その為、誰かがはぐれそうになっても、うまく落ち合うことができたのです。
ディズニー・シーの売店で、皆同じ紺色のストラップを購入し、全員首から携帯電話をつり下げて歩きました。恥ずかしいなんて、言っていられません。この日、私は、カメラをホテルに忘れましたので、写真が撮れませんでした。

宿泊場所が築地の近くだったので、夕食は、お寿司屋さんでお寿司を堪能しました。安くて美味しいことで有名な店で、大勢の人が並んでいました。



2002.4.20(土)    <横浜の従兄弟の家に行く>

今日は、私は友人一人と横浜の従兄弟の家へ行き、残りの3人は、お台場などを観光後、家路に付くこととし、朝食後解散しました。

横浜の従兄弟が家を新築し、年を取った両親を引き取り、同居を始めました。そこへ、始めて訪ねました。
従兄弟夫婦が建てた、新築の家は、素晴らしく、庭の手入れも行き届いていて、良い住まいでした。
幼い頃から、いつも可愛がってもらった、懐かしい伯父と叔母に会うことが、一番の目的でしたが、従兄弟夫婦が、両親に優しく気を配ってくれている様子がよく分かり、心から嬉しく思いました。
しかし、以前のままに優しい伯父が、楽しそうに話してくれる会話が、少し外れていることが、悲しいことでした。
叔父と叔母が、元気で長生きしてくれることを祈りつつ、神戸へ戻って来ました。


叔父を囲んで



                                      (完)




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